お葬式

 父は、大正10年(1921年)1月2日、福岡県筑後市大字常用(つねもち)の農家の次男坊として生まれた。筑後市立下妻小学校(http://www2.ktarn.or.jp/~simotuma/)を卒業。

 父の遺品を整理していたら、卒業生名簿が見つかった。明治31年3月に祖父の三吉が卒業し、昭和8年に父が卒業していた。昭和49年10月、創立85周年記念で出されたものだが、総勢4400人中、約1/4が下川姓である。次に古賀、塚本、井口などが多い。

  

 福岡県立八女農業高校農業科(http://yame-agr.fku.ed.jp/)を昭和13年(35回生)に卒業。東京美術学校(現在の東京芸術大学美術学部)に入学したが、「芸術とは何事か!」と祖父に連れ戻され、当時、日本だった、韓国ソウルの京城師範学校に入学。京師一六会という同窓会の案内状も引き出しから出てきた。

 数年間、韓国で教師生活の後、徴兵されソ満国境からヤップ島に転戦し敗戦を迎えた。戦後は、佐賀で興亜火災に勤めていたが、結核で5年ほど、久留米医大に入院し、退院後、水ケ江1丁目でカメラ店を開いた。

  

 昼からお葬式。祖父の代からお世話になっている、佐賀空港近くの寺井の万福寺さんにお願いした。戒名は釋喜浄居士。

 万福寺さんの入口に墓を立てた矢先で、待っていたかのように亡くなってしまった。中学、高校の同級生で家業が石材店の田中くんが、小さいけど立派なお墓を作ってくれた。